「三十九回目の誕生日と祖母の死と大雪と」
埼玉スタジアムのヴューボックスとかいう席で、さあ、もうすぐキックオフだと待ち構えていると携帯電話が鳴った。連れあいからだった。
「お婆ちゃん、さっき亡くなったって」
まったく、死ぬときまで嫌味な婆さんだ。なにも孫の誕生日に、しかも、ワールドカップ予選が始まるその直前に死ぬこともあるまいに。
「サッカーなんか見てても大丈夫なの?」
と心配する観戦仲間に笑顔を返しながら、いくつかの出版社に電話をかけ、週末から来週にかけて迷惑をかけると告げてから、わたしはスタンドの席についたのだった。
まあ、オマーン戦に関しては「SPORTS Yeah!」という雑誌に観戦記を書いているので、そちらを参考にしてください。どっちにしろ、クソみたいな試合だったけれど。
試合後、北海道の母に電話をかけ、葬儀のスケジュールを訊いた。19、20日は友引だとかなんとかなので、葬儀は21日、内々だけの密葬で済ませたいということだったので、その両日、わたしは働き続け、21日の早朝の便で千歳に発ったのだ。4、5年降りの帰郷だ。
空港には妹が迎えに来てくれた。車に乗り込み、妹との久しぶりの会話を楽しんでいたのだが、妹の運転する車はわたしの記憶とは異なる道を進んでいく。
「なんだ、新しい道でもできたのか?」
「お兄ちゃん、知らなかったんだっけ。日高高速道路ができたんだよ」
日高高速道路? あんな地の果て、住んでいる人間以外、ほぼだれも訪れないようなところに、道路公団は高速道路を敷いたというのか? とんでもねえ。
日高高速道路とは名ばかりで、その高速は日高の手前、鵡川までしかまだ通じてはいないのだが、ほとんどが一車線、おまけに暫定的に無料で通行できることになっている。
なんとまあ壮大な無駄遣いか。信じられない。こんな高速道路必要ないだろうというわたしに、妹は凄い交通量なんだよと応じたけれど、ただだからに決まっている。妹だって、金を取られたらこの道路を使うかと聞いたら、首を傾げた。
わたしの生まれた浦川という町は、太平洋岸をえりも岬方面までまっすぐ国道365号線を走っていけば辿り着く。途中で見る日高の景色は、わたしが上京した二十年前とほとんどなにも変わりなく、脳味噌の奥深くで眠っていた記憶がいたく刺激された。幼少時の記憶というのはかくも鮮明なものか。
富川から浦河までの道中は、わたしの記憶と寸分違わない景色が続いていたのだが、浦河町内に入って驚いた。街並みが一変している。なんだ、これは? 日高のくすんでうらぶれた町の中で、なぜに浦河だけがこんな変貌を遂げたのだろう。
祖母は棺桶の中で静かに眠っていた。わたしは一応喪主ということになるのだが、故郷を捨てて数十年、知った顔もほとんどいないので、母が喪主代わりを務めてくれた。火葬場で遺体を焼き、祖母が住んでいた町営アパートで葬儀をする。集まったのは身内と祖母が生前親しかったりお世話になっていた人たちが二十人というところ。狭い居間でデリバリーのオードブルを囲み、酒を飲みながら祖母にそれぞれの弔辞を述べた。その最中、弟がこう漏らした。
「生きてたときには、あの婆ちゃんは大変だ、ついていけない、とかいってたくせに、どうして死んだらみんないいことしか言わないんだよ」
わたしは笑ってしまった。少なくともおれたちはほっとしているのだ、それでいいじゃないか。
葬儀が終わると、わたしと連れあい、それに弟と妹は身支度を整えてジンギスカンを食いに出かけた。久しぶりのジンギスカンだ。わたしと連れあいは一人前450円也のラム肉を、弟と妹は一人前2300円也の特上カルビを食いまくった。ああ、北海道のジンギスカン文化はいずれ滅びるな、そう思わせる弟と妹の牛肉への執着ぶりだ。祖母の死よりそちらの方が、わたしにはよっぽど悲しかった。
翌日は13時25分発のJALで帰京する予定だった。日高地方は朝から雨。再び、妹の車に乗りこんで千歳に向かう。ところが、胆振地方に入るやいなや、雨は重たい牡丹雪に変わり、あたりの景色を重苦しい白色に変えていく。
「飛行機、大丈夫かな」
わたしと妹は顔を見合わせた。これが軽い粉雪ならそれほど心配することはないのだが、水分を含んだ重い牡丹雪は除雪に時間がかかるのだ。わたしたちの不安は的中し、チェックインカウンターに到着すると、13時25分発の飛行機は、まだチェックインはできず、いつになるのかもわからないということだった。焦ってもしょうがない。いつかは飛ぶだろうと空港内の鮨屋で妹に鮨を振る舞い、お土産屋を冷やかして歩く。窓の外はすでに真っ白で、視界は数メートルしかない。
2時過ぎにチェックインがはじまり、3時には飛行機は飛ぶということになった。が、中に入り、出発の案内を待っていると「除雪作業が捗らず、出発は5時過ぎになる予定」というアナウンスが入った。どうやら、2時半以降の便はすべて欠航になるらしい。
一瞬、今日のチケットをキャンセルして札幌で一泊し、もう少し旨いものを食ってから帰ろうかという考えが頭をよぎった。しかし、わたしには仕事が待っている。邪な考えは振り捨てて、本を読みながら出発を待った。
しばらくして雪が小振りになり、搭乗予定時刻も16時10分に繰り下がった。なんとか機中の人になり、羽田に到着したのが18時過ぎ。北海道は零下の世界だったが、東京は20度近い気温に高い湿度。同じ国とは思えない。
しかし、札幌泊などしなくてよかった。翌日の北海道はさらに激しい荒天で、千歳空港自体が封鎖されたほどだ。わたしの帰京は24日以降ということになり、出版社に多大な迷惑をかけたやもしれぬ。一泊だからということで、パソコンも持っていかなかったのだから。
それにしても本当に困った時に死んでくれたものだ。久々にくたびれ果てたよ。
(2004年3月6日掲載)
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