「逆ギレする犬」
毎度、犬の話ばかりで申し訳ないのだが、今現在のわたしの生活はかなりの部分で犬が中心になっているのでいたしかたない。
わたしとマージは、週に2回、東大農学部の家畜病院に通っている。腫瘍を完全に取り除くための放射線治療を受けるためだ。
当然ながら、マージはこの病院通いを異常に嫌う。手術のために3日間、わたしと離ればなれにさせられたことをいつまでもいつまでも覚えているのだ。
普段、わたしとマージは、わたしの仕事が一段落した、午後4時半から5時の間に散歩に出かける。その時間が近づくと、マージは落ち着きがなくなりはじめ、わたしが仕事に熱中して時間を忘れていると、散歩に行こうと催促をはじめる。
ところが、病院へ行く日は、わたしは2時には仕事を切り上げ、出かける支度をはじめるのだが、この時もマージは落ち着きがなくなる。そんな変な時間にわたしが外出の支度をするということは自分が病院に連れていかれるのだということを、ものの見事に理解しているのだ。
マージは頭がいい。しかし、わけがわからない犬でもある。
普通なら、嫌なところへ連れていかれるとわかったら、どこかに逃げるなり隠れるなりすればいいものをと思うのだが、マージは逆に玄関に突進していく。変な声でうなり、鳴きながら自ら率先して外出の準備をするのだ。パニックに陥っているのか、それとも、嫌なことはさっさと済ませたいと思っているのか。まあ、犬にそこまでの理解力があるとは思えないのだが。
とにかく、そんな感じで、おかしな犬だこの犬はなどと笑っていたのだが、先日は少しばかり、様子が違った。
いつものように2時過ぎに外出の支度を整えていると、マージはいつものように変な声でうなり、鳴きながら玄関に突進した。わたしがその後を追いかけて、玄関で靴を履いていると、さらに奇妙な声でうなり、鳴きながら、跳びはね、鼻の頭で何度も激しくわたしの腰を突くのだ。
「なにしてるんだよ、マージ。嫌なのはわかるけど、仕方ないんだからな」
わたしはそういってマージをたしなめようとしたのだが、マージは相変わらず奇妙な声で鳴き、跳びはね、わたしを突っつき続ける。奇妙な鳴き声さえなければ、それはもうまるで、躾のなっていない犬が散歩に行くのがうれしくて飼い主をせき立てている図でしかない。が、マージは心底出かけることを嫌がっているのだ。嫌なのに、わたしが連れていくからしかたなく従っているのだ。
「痛っ! 痛えよ、マージ」
ひときわ激しくど突かれて、わたしは声を荒げた。それでもマージは奇妙な声で鳴き、跳びはね、わたしを突っつき続ける。
「なにしてるの?」
異変を察知した連れ合いが玄関にやってきた。マージを見て目を剥き、やがてぽつりとつぶやいた。
「マージ、逆ギレしてる……」
そうか、そうだったのか、マージよ。おまえは病院に行くのが嫌で、それでもおれに逆らうことができなくて、追い込まれた挙げ句に逆ギレしてしまったのか。
ふーん、ひゅーん、へーん、ふががが
連れ合いがそばに来たのにも気づかず、マージは相変わらず奇妙な声で鳴いている。
ふーん、ひゅーん、へーん、ふががが
もうその姿は奇妙であるとかへんてこであるとかを通り越して、哀れですらある。哀れすぎて、わたしは大笑いしてしまった。
「大丈夫だよ、マージ。いつもそうだろう? 今日だって一緒に帰ってくるんだから」
ふーん、ひゅーん、へーん、ふががが
わたしは笑いながらマージを外に連れだし、エレヴェータに乗った。それでもマージの、ふーん、ひゅーん、へーん、ふががが、は収まらない。
「マージ、嫌ななのはわかるけど、あと一ヶ月ちょっとの辛抱だからな」
わたしはわたしの哀れな犬の背中を撫でた。マージはおこりにかかったかのように震えている。本当に嫌で嫌でしょうがないのだ。それで逆ギレしてしまっているのだ。
逆ギレしているにも関わらず、マージは外に出ると軽やかな足取りで歩く。いつもの場所でおしっこをする。ふーん、ひゅーん、へーん、ふががが、はこの時点では収まっている。が、駐車場に近づくと、再びはじまる。
ふーん、ひゅーん、へーん、ふががが
震えながらマージは鳴き、そして自ら車に突進していく。知らない人が見たら、マージは車に乗るのが大好きなのだと勘違いするだろう。だが、マージはここ最近、車が嫌いでしょうがないのだ。できることなら乗りたくはないのだ。それなのに、わたしには逆らえないから自ら車の後部座席に飛び乗ってしまうのだ。
本当におかしな犬だ。
我が家から病院までは車で30分は楽にかかる。その間中、マージはくんくん鳴いている。せわしない呼吸を繰り返し、よだれを垂らし、開けはなった窓から顔を突き出して社外の新鮮な空気を嗅ぎまくる。
おかげで、わたしのBMWの外装はマージの涎でべとべとだ。もはや、洗車する気力もない。
病院に着くと、マージの逆ギレは収まる。すっかり諦めたわけではないが、ここまで来たら逃げ道がないことをわかっている。治療のためにわたしから引き離されるときは四肢を踏ん張って抗おうとするが、それも無駄な抵抗だ。
マージは鎮静剤を飲まされ、放射線治療を受ける。約1時間後にまた、わたしの元に連れられてくるときには、薬の作用で足下がふらついている。それでも医者を引っ張りながらわたしの元に突進してくる。
車に乗せると、マージはすぐに眠りにつく。わたしと一緒に帰れることを理解して、安心して眠るのだ。当然、ふーん、ひゅーん、へーん、ふががが、はない。
しかし、逆ギレすることもないだろうに。
わたしはわたしの犬を心から愛しているが、わたしの犬が相当におかしな犬であることも自覚している。
(2002年11月14日掲載)
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