Hase's Note...


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「犬猿の仲」

 つい、先日のことだ。
 イタリアン・ミートボールが食べたくなった。トマトスープで煮込んだ肉団子。ハーブとニンニクとパルメザンチーズの香り。もちろん、わたしが作るのだ。我が家の食事はすべて、わたしが作る。連れあいは片づけ担当。わたしは料理が好きだ。自分の作った料理を「美味しい」といってもらうのが好きだ。だから、自分で料理をする。整理整頓の能力は皆無なので、そちらは連れあいがする。
 合理的な夫婦生活。
 わたしは仕事をしていたのだが、頭の中はイタリアン・ミートボールでいっぱいだった。これでは仕事にならない。パソコンをシャットダウンする。わたしの足元で寝ていた愛犬のマージがむくりと身を起こす。
 パソコンの電源が切れると、次は散歩だ−−マージは完璧に理解している。
 わたしはマージを連れて、近所のスーパーマーケットまで、散歩を兼ねた買い物に行く。スーパーに到着すると、マージは軒先の電信柱に繋がれる。わたしの買い物が終わるまで、おとなしく待っている。時に、近所のオバサン連中や女子高生の軍団にとっつかまって、「かわいいー」「いい子だねー」などと騒ぎ立てられると、マージは実に困った顔をしてわたしを待つ。
 マージは臆病な犬だ。大声が嫌いだ。人間の群が嫌いだ。人間が自分に危害を加えないことはわかっている。だから怯えたりはしないが、困る。落ち着かない。本当にそんな表情を浮かべている。犬の扱い方を心得ている人間に頭を撫でられれば、尻尾は振る。しかし、別に嬉しくもなんともない。そんなことより、はやくわたしに戻ってきてもらいたい。
 マージはそう思っている−−多分。
 わたしはいつもと同じ場所に、マージを繋いだ。スーパーに入り、買い物カゴを手にし、まずは二階にあがる。ホールトマトの缶詰をカゴに入れる。オリーヴオイルが少なくなっていることを思い出し、エキストラヴァージンを探す。イタ飯の食材コーナーをひととおり眺めてから、野菜と肉を買うために階下に降りる。
 スーパーの前に人だかりができている。なんだと思って外を覗くと、人だかりが注目しているのは、マージだった。
 車に轢かれたか−−一瞬、そう思った。スーパーの前の道は狭いわりに、交通量が多い。マージは図体がでかい。気をつけて繋いではいるのだが、下手な運転手なら、車をマージにぶつけてしまう可能性がないわけではない。
 わたしは買い物カゴを足元に置いて、スーパーを出た。マージは元気そうだった。車に轢かれた様子はない。ならば、なんだってこいつらはおれの犬を凝視しているのか−−。
 マージに向かって足を一歩踏み出して、気づいた。マージの背中になにかが乗っている。マージはそいつを振り落とそうとしている。
 猫か? 違う。あれは……猿だ。日本猿だ。
 頭の中が真っ白になった。高級住宅街のど真ん中に、なんだって猿がいるのだ? なんだってその猿がおれの犬を襲っているのだ?
 混乱するわたしの目の前で、マージが猿を振り落とした。猿は地面に降りたつと、器用に手足を使って電信柱を駆けのぼり、近くの民家の屋根の上に飛び移った。
 猿−−日本猿。思い出す。何ヶ月も前に、ニュースで見たのだった。代々木の高級住宅街に、日本猿が出没する。保健所がなんとか掴まえようと躍起になっている−−そんなニュースを何度も見た。だが、あれはもう半年以上も前のはずだ。とっくに掴まっていると思っていたが、そうではなかったのか? あの時の猿が、マージを襲っているというのか?
 しかし、マージは困ったような顔をしている。怯えているわけではない。無遠慮なオバサン連中に無遠慮に身体を撫で回されている時と同じ表情を浮かべているだけだ。
「マージ」
 わたしはマージに声をかけた。猿に気を取られていたマージがわたしに気づいた。激しく尻尾を振った。甘えるような声で鳴いた。
「あら、あなたの犬?」人だかりの中から声がする。「だめよ、こんなところにワンちゃんつないだら。あの猿、最近、よくこのあたりにいるのよ。それで、ワンちゃんが好きみたいで、遊ぼうとするの」
 また、ニュースを思い出す。あの猿は、どこぞの民家の犬小屋で、犬と一緒に寝たり遊んだりしているところを見られていたのではなかったか。
 犬好きの猿−−犬猿の仲はどうなったのか。いや、そんなことはどうでもよろしい。マージは困っている。あの猿はマージと遊びたいのかもしれないが、マージはそんな気分ではない。
 わたしはマージを電柱から解放した。マージがわたしに飛びついてくる。三十八キロの身体を受け止めながら、屋根を見る。猿がわたしとマージを凝視している。
 怒ったり、興奮したりしている様子はない。猿はただ、マージと遊びたがっているのだ。
「だいじょうぶだったか、マージ?」
 わたしはとりあえず、マージの背中を見た。傷はない。
「偉いわね、おたくのワンちゃん。猿に飛び乗られても、ぜんぜん吠えないのね」
 だれかがいう。マージは吠えない。吠えるのは他人が家に来たときと、大好きな犬と遊ぶときだけだ。吠えないようにしつけたのだから、当然だ。ときおり、散歩の前に興奮しすぎて吠えてしまうことがある。マージはだが、吠えた次の瞬間に、「しまった」という顔をする。わたしに叱られることを感じて、部屋の隅にいってうずくまる。いずれにせよ、マージは滅多なことでは吠えない。
 わたしはその声を無視して、スーパーの隣りの花屋さんに声をかけた。
「すいません、買い物すぐ終わらせてきますから、犬、見ててもらえますか?」
 マージを花屋の近くに繋ぎ、わたしは振り返った。
 猿はまだじっと我々を見ていた。高級住宅街の新築の家の屋根に座っている猿−−不条理な世界がそこにある。その猿に襲われた−−実際には遊んでくれとちょっかいを出されただけなのだろうが−−わたしの犬。
 いやはや、いやはや。
 買い物を猛スピードですませ、わたしはマージの元に戻った。猿はまだ同じ場所にいた。マージと遊びたがっていた。
「悪いな。マージはおまえとは遊びたくないってよ」
 猿に向かっていい、わたしとマージは帰途についた。
 人通りの少ない住宅街の路地を歩いているうちに、笑いが込み上げてきた。猿に抱きつかれながら、困った顔をしているマージを思い出すと、どうにもこうにも笑いがとまらない。
「猿に襲われた犬なんて初めてみたぞ、マージ。嫌だったら吠えるとか唸るとかしろよ。困った顔してる場合じゃないだろう」
 わたしはマージに話しかける。マージは笑いながら尻尾を激しく振った(犬は笑う。本当だ)。わたしが楽しそうに笑っているから、自分も楽しい−−マージはそういっているのだ。なんと可愛い犬よ。猿に襲われて、途方にくれる犬だとしても。
 それにしても、猿とはね。猿に襲われるとはね。襲われたわけじゃないのはわかってるけど、やっぱり、ね。
 わたしは笑いつづけた。通りすがりの人たちが、わたしとマージに白い目を向けてきても、笑いはとまらなかった。
 その夜作ったイタリアン・ミートボールは格別にうまかった。

(2002年3月10日掲載)

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