Hase's Note...


┏-┓
-

「小説家になる方法?」

 待ちに待ったジェイムズ・エルロイの新作『アメリカン・デス・トリップ』(文藝春秋刊)を貪るように読む。驚く。
 この作品でエルロイが駆使している文体と、わたしが『無』や『生誕祭』でなんとかものにしようと苦心惨憺している文体が、ほぼ同じなのだ。
 修飾語をなるべく裂け、1センテンスに使う単語をなるべく少なくし、過去形ではなく現在形の短いセンテンスを畳みかける。
 例えば−−
「馳星周は叫ぶ。唾を飛ばす。口汚く罵りつづける」
 というような感じ。
 エルロイがこの文体を使ってなにを狙っているのはよくわかる。より、切実に。より、狂的に。より、破滅的に。わたしもそうだからだ。
 しかし、それにしてもここまでそっくりだとはなぁ。来年、『無』や『生誕祭』が出版されたら、事情も知らず、想像力も欠如してる連中から、「馳星周はまたエルロイの真似をしてる」といわれるんだろうなぁ。
 たしかに、わたしはエルロイに多大な影響を受けている。エルロイの小説を読まなければ、自分で小説を書こうとも思わなかったかもしれない。
 しかし、だからといって、わたしがエルロイとまったく同じような作品を書こうと思っているわけではない。わたしには、わたしなりに辿りつこうと思っている場所があり、それは多分、エルロイが目指しているのとは違うはずだ。
 似通った部分がどれだけあったとしても(あって当然なのだが)、目指すところは違う。ただ、人の物真似をしているだけで満足するような人間なら、そもそも小説を書こうとは思わないだろう。
 たいていの作家は、他人の模倣から出発し、オリジナリティを獲得していく。だが、なぜある作家の作品に触発され、それを模倣しようと思うかは、人それぞれだろう。作家になるような人間は、普通、言葉にできないなにかを心の内に抱えていて、それに言葉を与えようとして躍起になっているものだ、と思う。
 逆にいえば、そうでなければ小説を書く意味などない。
 わたしはライター時代に、いくつかの小説新人賞の下読み(まあ、一次予選の審査員というところか)をやっていた。小説家になってからは、某新人賞の最終審査の任を受けたこともある。そうした仕事をして感じるのは、世の中の「作家予備軍」の大半は、ただ単に「小説家になりたい」と思っているだけの人間だということだ。内なる衝動があるわけではなく、ただぼんやりと、小説家になりたいと思っている。
 暴言をはいてしまうが、こういう人たちが送ってくる作品の九割は、クズだ。どれだけ文章がうまくても、プロットに凝っていても、こちらの胸に訴えかけてくるものはほとんどなにもない。
 逆に、文章やその他の部分が稚拙であったとしても、エルロイのような小説を書きたい、ハードボイルドを書きたい、斬新なトリックを駆使した本格ミステリを書きたいと切望している者の作品は、どこか光り輝いて見える。
 書くものが抱える切迫したなにかが、作品に力を与えるのだろう。なぜなら、彼は(彼女は)それを書きたいのだから。書かずにはいられないのだから。
 ひるがえって、ただ「小説家になりたい」と考えている人たちの作品には切実さはない。彼らはストーリィを考える。キャラクタを造形する。ただ、それだけ。そういう人間の五百人にひとりぐらいは、こちらに「おや」と思わせるものを持ってはいる。だが、それは別に、その人でなければ書けない作品ではない。なぜなら、彼には衝動がないから。切実な思いがないから。
 時々、メールその他で「小説家を目指している。なにかアドヴァイスになるようなことをウェブで書いてくれ」といってくる人がいる。アドヴァイスするようなことなど、実はなにもない。書きたいことがあるか? 書きたいものがあるか? 切実ななにかを抱えているか? それだけだ。文章など、書きつづけていれば、だれだって否が応でもうまくなる。プロットを組むことも同じだ。小説家になるのに才能などいらない。いや、書かなければならないという衝動があるかどうかが、小説家としての才能なんではないかと思う。
 よろしいか? 時々ギャグのネタに使わせてもらっている北○謙○大先輩は、おそらく、自分の書くものは日本で、いや、世界でも一番恰好いい男たちを描いたものだと信じている。嘘ではない。あの人は、本当にそう思っている。この思いもはある種の妄念であり、衝動だ。だからこそ、あの人は二〇年以上にも渡って、最前線で書きつづけている。それは、わたしも同じだ。ほとんどありとあらゆることに倦んでいるのに、それでも毎日小説を書いている。書かずにはいられないのだ。書かなければ窒息してしまう。我々小説家は、基本的には、深海を泳ぐ鮫と同じだ。立ち止まれば、死んでしまう(ちょっと大袈裟だけど)。
 衝動があるのなら、書けばいい。書かなければ、作品は永遠に生まれない。衝動もなにもなく、小説家ってのはよさそうだな、小説家になりたいな、と思っているだけなら、他の仕事を探しなさい。この世界は、世の中の人間が考えているほど甘くはない。日本にどれだけの「小説家」がいるのかは知らないが、年収が一千万を越える者はほんの一握りだろう。それ以外の人たちは、アップアップでその日その日を凌いでいる。衝動があり、なおかつ圧倒的な文章能力を備えていたとしても、売れる作家になれるとは限らない。わたしや京極夏彦さんは、例外中の例外である。
 ああ、エルロイから、随分、話がずれてしまった。
 話変わって、クイズの話題。
 普通免許を取得した。オートマ限定。買う車も決めた。今は納車を待っている。
 今現在、クイズの正解者はたったの一名。まあ、大雑把な設問にすぎたし、車に興味のない人−−特に女性には酷な問題だったかなと思う。
 しかし、だ。犬を乗せるんだからワゴンやランドクルーザーと答えた人たち。もう少し、考えなさい。確かに、犬のためにわたしは免許を取ることを決心した。だが、犬が病気になったときのため、とわたしは書いたはずだ。犬を乗せてドライヴに行くなんてスタイルが、わたしに似合うか? アウトドアなんて、わたしは憎悪しているぞ。教習所に通っているうちに、車の運転が楽しいということに気づいた、と書いたのだ。いい車が欲しいということは、運転していて楽しい車が欲しいということだと思うが、どうか?
 普通、そう思いません? 犬にとらわれすぎだよ、みんな。加えていえば、うちの犬はきっちり躾をしてあるし、本来がおとなしい性格の犬なので、セダンの後部座席に乗っけても、なんの問題もない。
 というわけで、もう一度、クイズ。すでに解答をおくってよこした人のために、ひとり二回まで解答できるということにする。車種を当てろとまではいわない。わたしが買う車のメーカー名だけでも、当ててください。
 景品はいろいろ考えたんだけれど、わたしのお古のサングラス(ジッポー、どこにしまったのか見つからない)。ケースにサインをつけよう。そんなものはいらん、と言われたらそれまでだが。
 ヒント。解答をおくってくれたある人が、こう書いてきた。
 あなたに国産車は似合わない。
 わたしも、そう考えている。
 締切は来週一杯(9月22日)。サングラス、ちゃんと使っていたやつだということは保証する。
 

(2001年09月12日掲載)

-
┗-┛


[← 前号ヘ] [次号へ →]



[TOP] [ABOUT SITE] [INFORMATION] [HASE'S NOTE] [WORKS] [LIST] [MAIL] [NAME] [SPECIAL]

(C) Copyright 2001 Hase-seisyu.Com All Rights Reserved.