「習作2」
少年は助手席に飛び乗った。ドアを閉めた。シートに染みついた煙草の匂いに噎せた。
「ずるいよ、お兄ちゃん」弟が助手席の窓を叩いた。「ぼくが助手席に乗るんだ」
少年は弟を無視した。バックミラーを見つめた。父親がトランクに釣り用具を収めていた。
「お兄ちゃん!」
弟が叫んでいる。少年は微笑を浮かべたままで、口は開かなかった。弟が地面の石ころを蹴った。舌打ちして、後部座席に乗りこんだ。
「帰りはぼくが助手席だからね」
弟が助手席の背もたれから顔を覗かせた。
「なに喧嘩してるんだ?」
父親が運転席に着いた。
「喧嘩なんかしてないよ」
少年はいった。車が動きだした。
「お兄ちゃん、ずるいんだよ。せっかく、久しぶりにお父さんと出かけるのに、さっさと自分だけ助手席に乗るんだから」
「どこに座ったって一緒だべ」
父親がいった。
「そうさ。どこに座ったって一緒だべや」
少年は笑いながら父親の言葉を真似た。
「違うよ。お父さんの車に乗るの、すごく久しぶりなんだから」
弟が唇を尖らせた。 * * *
森には濃密な匂いがたちこめていた。木々の匂い、土の匂い、虫たちの匂い、あちこちに咲く花が放つ甘い匂い。数日前に降った雨の匂いも残っていた。
森は様々な音に満ち溢れていた。風の音、葉ずれの音、鳥や虫の鳴き声に羽音、少年たちが土を踏みしめる音、川のせせらぎ。
木々の合間から差しこんでくる陽射しが石や木々についたままの露を輝かせていた。空気は冷んやりとしていた。
「お兄ちゃん、これ見て」
少年の背後で弟が叫んだ。少年は父親の背中を見つめた。父親は川のせせらぎの聞こえる方に進んでいく。少年たちを振り返る様子はなかった。
一瞬躊躇して、少年は身体を反転させた。弟がひときわ太い幹を誇る樹の脇に立っていた。
「なんだよ?」
「あそこの穴」
弟が樹の幹を指差した。弟の頭のかなり上、幹の中央の部分にうろがあいていた。うろの中からは、虫たちが動き回る乾いた音が聞こえてきた。
「いるかな?」
弟が目を輝かせた。
「多分ね」
少年はうろの中に手を突っ込んだ。表面がつるりとした固いものが指の腹に触れた。人差し指と親指でそれを掴むと、小さな刺がいくつもついた細長いものが人差し指に絡みついてきた。
「いたぞ」
少年は手を引き抜いた。鋏を頭から生やしたクワガタが少年から逃れようともがいていた。
「ノコギリクワガタだ!!」
弟が叫んだ。少年に両手を伸ばしてきた。
「逃げられないようにしろよ」
少年は弟にノコギリクワガタを渡した。父親を探した。父親の姿はなかった。
「お父さん?」
少年は声を張りあげた。
「こっちだ。早く来ないと置いていくぞ」
森の向こうから声が返ってきた。
* * *
小さな滝が岩を打っていた。ときおり、岩魚かヤマメが水面に跳ねて、鱗が光った。まるで宝石のようだった。
父親が膝まで水に浸かって釣り糸を垂らしていた。弟は少し離れた場所で小さな水溜まりを見つけ、オタマジャクシを掬うのに夢中になっていた。少年の足元で、ノコギリクワガタが右往左往していた。クワガタの鋏−−角には釣り糸がくくりつけられていた。糸の反対側の先端を石ころで押さえつけてあるから、逃げられる心配はなかった。
少年は表面が平べったい、羆ほどもある大きな岩の上に立っていた。父親と同じように釣り竿を操っていた。少年の表情は曇っていた。
「つまんない」
ふいに、少年は釣り竿を足元に投げだした。クワガタが慌てて進む方向を変えた。
「お父さん、つまんないよ。もう帰ろうよ」
「なにがつまんないってよ?」
父親がいった。視線は釣り糸の先に釘づけになっていた。
「だって、さっきから一匹も釣れないじゃない」
「釣れなくてもいいんだ」
「釣れなきゃつまらないよ。お爺ちゃんの釣り堀に行けば、いくらでも魚なんて釣れるのに」
「一緒に来たいっていったの、おまえたちだべ」
「もっと釣れると思ってたんだもん」
「釣れないのも釣りだ。我慢すれ」
少年は頬を膨らませた。小石を拾いあげた。水面に向かって、横手で石を投げた。石は三度跳ねて、沈んだ。
「石遊びするんなら、向こう行ってやれ。魚が逃げるべ」
父親がいった。声は静かだったが、有無をいわせぬ響きがあった。
「あぁあ、つまんないな」
少年は聞こえよがしにいった。父親は振り返りもしなかった。
「お兄ちゃん、これ、なんの卵?」
弟の声に、少年は振り返った。弟は水溜まりから離れて、滝のそばの岸部に移動していた。岸部に密生している野草を覗きこんでいた。
野草の葉には、白い泡状の塊がいくつも乗っていた。
「なにかの虫の卵だろう」
「知らないの?」
「お爺ちゃんに聞けばわかるよ」
「お父さんは?」
少年は肩越しに振り返った。父親は相変わらず釣り竿を握ったままだった。
「いま、お父さんに声かけても、叱られるだけだよ」
「つまんないね」
「うん、つまらない」
少年は首をぐるりと巡らせた。森は好きだった。川も好きだった。なのに、なぜ嬉しい気持ちが長続きしないのだろうといぶかった。
「テレビが見たいな」
弟がいった。
「そうだな。テレビがあれば最高なのにな」
少年は答えた。
(2001年07月26日掲載)
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