「最近のお仕事」
連休中は、当然ながら、仕事をしていた。書いて、書いて、書きつづけて、書かない時は、ゲラを読む。それも手につかない時は、自分の人生を振り返る−−なんだかなぁ−−溜め息をつく。
連休に入る前に、角川書店からゲラが送られてきた。三年ほど前に、ニッポン放送でやっていた「ザ・ブンダンバー」という番組で喋った内容を本にするそうな。
今さらと思いつつゲラに目を通し、自分のくだらなさに腹を立て、たった三年の間に記憶がいかに改竄されているかを思い知らされる。
なるほど、『不夜城』を出した時は金のネックレスを買って、『鎮魂歌』のあとにロレックスを買ったのか。すっかり前後を入れ換えて記憶していた。
まあ、そはそれとして、この本は、鈴木光司、姫野カオルコ、花村萬月との共著という形で『BUNDAN BAR』なるタイトルで五月末だか六月頭だかに発売されるらしい。このページを覗いてくれている人は買う必要がない(ごめんよ、角川。しかし、真実、胸を張って買ってくれとはいえねえもんよ)。が、実際に放送された内容に即していえば、姫野さんの話すことは、はらわたがよじれるほどおかしいものが多かった。そちらに興味のある向きはどうぞ。萬月がなにを話したかは知らんし、鈴木さんはどうせ子育てかなにかの話をしてるんだろうし。
自分が「書いた」ものでない出版物は、どうも熱心になれない。いま現在のわたしの最大の懸案事項は、小説すばる誌に二年以上に渡って連載を続けた「ダーク・ムーン」の手直し作業だ。
これが、時間がかかる。
そもそも、わたしは綿密なプロットを立ててから小説を書くというタイプではない。おおまかなあらすじを立てて、あとはぶっつけ本番で書いていく。自然、脱線が多くなり、時に文体とキャラクタが変化し、連載が終わったからといって、すぐ出版するというわけにはいかなくなる。雑誌を買っている人には大変申し訳ないのだが、わたしにとって連載とは、単に、第一稿を書いているということにすぎない。最終稿に仕立てあげて本にするまでには、なお一層の時間がかかる。
これまでは、出版社の事情なりなんなりがあって、充分な手直しができないまま出版した作品があったりもしたのだが(自分の中では忸怩たる思いがあるのに、作品の評判が予想外によかったりすると、呆気に取られる。たとえば、『漂流街』。あれはもっと手を入れたかった。だが、大藪春彦賞の賞金の五百万が欲しかったのだ。税金で苦しめられると、人間はかくもあさましくなる)、そろそろおれも我儘をいってもいいだろうと開き直り、「ダーク・ムーン」に関しては、半年近い作業時間をもらうことにしたのだった。
しかし、これが予想外にきつい。ストーリーに整合性がないのがひとつ。そして、この二、三年の間に、わたしが目指す文体の方向性が変わったことがひとつ。
ストーリーの方はわたしの頭の問題だから諦めもつく。それが嫌なら、準備期間を設けて、プロットを練りあげてから書きはじめればよい。問題はわたしの性格にあって、物語の核を見つけると、いてもたってもいられなくなる。悠長にプロットを練っている間に、「この物語を書きたい」というモティヴェーションが薄らぐのではないかという被害妄想にとらわれてしまう。それで、後先を考えずに書きはじめてしまう。これはもう、わたしの性だ。
本当の問題は、文体が変化したことだ。物語の流れと文体は、切っても切り離せない。『ダーク・ムーン』の連載をはじめたころのわたしが手にしていた文体というものがあり、その文体ゆえに物語の流れは決められていった。だが、ある時から、わたしは違う文体を追い求めはじめた。文体が変われば、物語の流れも変わってしまう。書きはじめた当初の文体で書ききってしまえばいいのだが、わたしは、今現在トライしている文体を自分のものにしたくてたまらない。なにを書くにしても、その文体で書きたくてたまらないのだ。
自分の欲求にどう折り合いをつけるか……わたしのように我儘な人間にはそれがとてつもなく難しい。
わたしはスピードに取り憑かれている。書いている間中、「もっと速く、もっと速く」とだれかがせっつく。書くスピードをあげろというわけではない。登場人物の意識の流れをもっと速く書きたいという妄想に近い欲求に、わたしはとらわれつづけている。
ともあれ『ダーク・ムーン』を出版するにはまだしばらくの時間がかかる。『マンゴー・レイン』はその後か(余談だが、タイで日本軍の埋蔵金騒ぎが起こった時にはぶっ飛んだ)。
いずれにせよ、仕事に追われまくる日々はまだしばらく続く。
失踪したい−−これが最近のわたしの口癖だ。
(2001年05月09日掲載)
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