「文壇バー」
とある場所で、「文壇バーというのは、どういうところなんですか」という質問をされた。
どういうところといわれても、作家がよく集まってくる飲み屋だよとしか答えようがないのだが、だからといって、その店に行けばいつだって作家がいるのかといえばそうでもない。最近の若い作家には酒を飲む人が少なく、かつて酒場で豪快に遊んでいた作家たちはある程度年をとり、それほど頻繁には飲み歩かなくなっている。わたしにしたって、二、三ヶ月に一度、行くかどうかで、それだって、別に好き好んで行っているわけではない。
作家や編集者たちのサロン的な「文壇バー」はほぼ絶滅しているといっていいだろう。そもそも、「文壇バー」という言葉自体が、しゃらくさくていやらしいではないか。
それでもなお、たまに文壇バーに出かけなければならないのには、わけがある。
作家の世界では、月に一度程度の割合で、なにかしらの「パーティ」がある。文学賞の授賞式であったり、作家同士の懇親会であったりが銀座近辺で開かれる。しかしながら、出版界は長引く不況で金がない(金があったころも同じだったらしいが)。パーティを開くたびにコンパニオンを雇うような金がない。コンパニオンなんかいらないではないかと思う人もいるだろうが、作家には我儘な人間が多いので、酒のお代わりや食事を取ってきてくれる人間がいないと途端に不機嫌になって編集者に当たり散らすようになる。
しかたがないので、パーティの主催者は、銀座近辺の「文壇バー」のママたちに、コンパニオンの代わりに店のホステスたちを派遣するようお願いする。報酬は雀の涙。その代わり、パーティがはねたあとは、作家や編集者たちがホステスを出してくれた店に足を運ぶ、という暗黙の了解が、どうやら存在する。
そんな習慣なんぞくそ食らえと思っていても、パーティ会場で酒を飲み、編集者や作家と話していると、「文壇バー」のママやらホステスたちが忍び寄ってきては、
「先生、今夜はどちらでお飲みになるの?」
とあからさまな態度で媚を売ってくる。これが御大ともなれば突っぱねることもできるのだが、わたしのように小心な若手作家はそうもいかない。
「しょうがねえ、顔出すか。だけど、ちょっとだけだぞ」
と口の中でもぞもぞと呟いている間に、拉致監禁される羽目になる。売れている作家を二、三人も捕まえれば、その「文壇バー」は願ったりかなったりで、作家と一緒に編集者たちがぞろぞろと合流してくるので、店は大繁盛という次第になる。店の人間の喜びとは別に、こちらはそれほど広くもないスペースに人がひしめく飲み屋で、窮屈な思いをしながら酒を飲むことになる。
たまにしか会えない人間と飲むというのなら、多少のことも我慢はするが、パーティは月に一度は必ずあるのだ。毎月顔を見合わせている作家や編集者と酒を飲んでも、すぐ話題が尽きるだけで、それほど楽しいものではない。
そもそも、作家同士が酒を飲むといっても、文学論を戦わせるわけではなく(そんなことをはじめたら、殴り合いになる可能性が高い。たいていの作家はエゴの塊が我儘という衣を着て歩いているようなものなのだから)、下ネタや他人の噂話をするぐらいのものなのだ。余人が思っているほど高尚でもなければ下劣でもない。つまり−−何度もいうが−−それほど楽しいものではない。かといって、いやになるほどつまらないわけでもない。たとえば、隣りで飲んでいるのが東野圭吾さんだったりすると、それはそれでかなり楽しい。見た目を思いきり裏切ってばりばりの大阪人である東野さんは、飲んで馬鹿な話をするには最高の人物だからだ。
東野さんと飲みたければ、別に文壇バーに行かなくてもいいのだが、わたしはプライベートで他人に電話するのを苦手としているので、そういうこともない。
いずれにせよ、銀座という街自体がさびれつつある今、「文壇バー」なる飲み屋も、いずれ消滅していくんだろう。なくても困らないものな、だれも。
(2001年04月12日掲載)
|