「祈り」
小説を書けない日がある、と前にも書いた。スランプというほど大袈裟なものではない。ただ、書けない。ストーリーはできあがっている。キャラクタも文体も固まっている。あとはもう、頭の中にあるものを文章に置き換えるだけでいい。それなのに、書けない。キィボードを叩こうとしても指がいっこうに動かない。登場人物の名前さえ、打つことができない。
発作のようなものだ。突然、不安が襲いかかってくる−−本当にこれでいいのか? この書き方でいいのか? 今の体調で書き進めていいのか? おまえには本当にこの小説を書くための能力があるのか?
言葉にはならない様々な想いが渦巻いて、額に汗が浮かぶ。呼吸が苦しくなる。
不安に理由はない。本当に発作のようなものでしかない。理由があるのなら、克服しようと努力することもできるが、意味のない不安の発作には対処のしようがない。
数時間、あるいは一日だけで収まればいいのだが、発作は時として二、三日つづくこともある。そうなると切実な問題になってくる。わたしは小説を書くことで生計を立てている。今やっている仕事のほとんどは連載物で、締切日が設定されている。締切を守れぬ者は、プロとして失格だ−−昔からわたしはそう思っている。
金を稼がねばならない。なおかつ、限定された状況の中で自分が満足出来るものも書かねばならない−−書きたい。それなのに、一行も書けぬ日が三日もつづく。
気が狂いそうになる。言葉のあやではなく、本当に狂いかけているのだと思うことが度々ある。
自分でも意識しないうちに、わたしはいつも祈りを唱えている。
*
神でも悪魔でもだれでもいい。おれに書かせてくれ。書かねばならない。書く必要がある。おれは悪徳にまみれた物語を書きたい。血と汚物にまみれた物語を書きたい。悪人どもがわが物顔で跋扈する物語を書きたい。おれの目に映る現実を写し取りたい。押しつけられたモラルを破壊したい。偽りの平和の中でなにも考えずに生きているやつらに唾を吐きかけてやりたい。ありもしない希望を書いた物語を読んで満足している連中を嘲笑ってやりたい。おれたちが生きている世界は狂っているのだということを証明したい。そこに住むおれたちも狂っているのだと叫びたい。だが、おれの声は小さすぎる。世界中に呪詛をばら撒くにはおれは卑小すぎる。だが、叫びを小説に込めれば、一握りの人間でも読んでくれる。おれの叫びに耳を傾けてくれる。
だから、おれは書かねばならない。とち狂った人間たちが紡ぐとち狂った物語を、とち狂った人間たちがつくりあげるとち狂った世界を、書かねばならない。書かなければおれは埋もれてしまう。窒息してしまう。
神でも悪魔でもだれでもいい。だから、おれに書く力を与えてくれ。おれに、悪徳にまみれた話を書かせてくれ。憎悪に塗り潰された魂を、欲望に破壊された魂を書かせてくれ。
*
祈りはいつまでもつづく。いつまでも繰り返される。気がつくと、普段は足元で眠っているはずの犬が、仕事部屋の入り口に背中を押しつけて座っている。怯えた目をわたしに向けている。
祈りを口にしているわけではない。それでも、わたしの狂気−−刺々しく凶々しい雰囲気が犬を怯えさせる。
わたしは優しい声で犬を呼び寄せる。犬は用心深く近寄ってくる。抱きしめると、大袈裟なまでに尻尾を振る。恐怖から解き放たれた喜びをあらわにする。
犬の暖かい身体を抱きしめながら、自分はなんと因果な人間なのかと考える。
(2001年04月04日掲載)
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