「断絶」
昨日、週刊新潮に連載している『無』の一ヶ月分の原稿を書き終えた。今日からは、また別の連載小説の続きを書きはじめなければならないのだが、ちょっとした問題があって気分が乗らない。一行も書けない。
気分転換に、この文章を書いている。早い更新になるが、たまにはいいだろう。
先日、このサイトを訪れた人からメールが来た。結構気が滅入る内容だったので、そのことについて書こうと思う。
メールの内容を要約すると、こうなる。
「馳さん、書きすぎじゃない? 書きすぎだから『不夜城』のような質の高い作品が書けなくなってるんじゃない?」
ふう。
こうした意見は、このメールを送ってくれた人だけのものではない。いろんなところで似たようなことをいわれる。梅崎さんという人が、ずいぶん前からわたしに関するHPを開設してくれているのだが、そこのBBSでも似たような意見が書き込まれたことがある。
書きすぎ云々に関しては、余計なお世話だと答えるしかない。なんの権利があって、あなたがたは人の仕事のやり方に異議を唱えるのか。放っておけ。わたしにはわたしなりの考え方があり、人付き合いがあり、諸々の事情が複雑に絡みあって現在の仕事量にいたっているというだけの話だ。
問題は、『不夜城』のような質の高い作品云々の部分にある。
初めにいっておくと、わたしは『不夜城』は自分が書いた作品の中でも下のランクに属すると考えている。つまり、自分ではそれほど気に入っていないのだ。もちろん、『不夜城』はわたしのデビュー作である。ベストセラーにもなった。愛着がないわけではない。だが、小説の出来としては、わたしは納得していない。今書けば、もっと違うものになる。
実際、『不夜城』が文庫になる際には、大幅に手直しを加えようかと真剣に考えもした。それをしなかったのは、作品は発表された時点で完結しているとみなすべきだと思ったからにすぎない。単行本を買ってくれた人に失礼だ−−そうも思う。
わたしが自分の作品で、とりあえず満足が行くものになったと考えているのは『鎮魂歌』、『夜光虫』、『雪月夜』の三作だけだ。『不夜城』よりよっぽどすぐれた作品だと自負している。仕事量が増えたからといって、必ずしもすべての作品の質が落ちるわけではない。
この点に関しては、多くの人が誤解している。誤った固定観念を植えつけられている。
しかし、メールをくれた人はそうは考えてはいないのだろう。彼にとっては『不夜城』が最高で、それ以外は流行作家になってしまった人間が勢いだけで書いた手遊びということになってしまう。
この断絶は埋めがたい。わたしには譲歩するつもりなどさらさらないし、読者は好きな本を読む権利がある。両者の立場は永遠に平行線を辿るしかない。
もし、わたしが金と名声が欲しいというだけの人間なら、読者が望むものを書くだろう。『不夜城』のような作品を読みたい? よろしい、いくらでも書いてやろう。自分でいうのもなんだが『不夜城』のような作品ならいくらでも書くことができる。劉健一のような人間なら、無数に産み出すことができる。
しかし、わたしは書きたくないのだ。エルロイふうにいえば、『不夜城』のような作品には死ぬほど飽き飽きしている。わたしは進歩したい。変化したい。過去の、しかも自分で未熟だと感じている作品になぜ拘泥しなければならないのか。読者が求めているからといって、なぜそれを追い求めなければならないのか。
わたしには、わたしの望むものを書く権利がある。読者には、自分がつまらないと感じた小説家の作品を買わない、読まない権利がある。
それだけのことではないか。
自分の読みたいものを小説家が書かないからといって、その小説家は別に変節したわけではない(まあ、変節する人が多いらしいことは認めるが)。恨みごとをいいたくなる気持ちは理解できるが、それをぶつけられたからといって、わたしにはなにもできない。なにかをしようという意思もない。
ただひたすらに、自分の価値観だけですべてを判断するのはやめてくれ、自分の価値観を他者に押しつけようとするのはやめてくれとお願いするだけだ。
今年中に、わたしは『不夜城3』を書きはじめなければならないことになっている。物語のアウトラインも、頭の中では固まりつつある。おそらく、『不夜城3』は読者が想像し、期待しているものとはまったく違う小説になるだろう。
こんなのは『不夜城』じゃないといわれたら−−ごめんなさいといって頭を下げるか。
結局はそういうことなのだ。
あなたが馳星周の小説はつまらないと感じるのなら、馳星周の小説を買わなければよろしい。
読者がそっぽを向き、本が売れなくなったとしても、わたしはわたしの望む物語を書きつづけるだろう。それしかできない。それが、唯一無二の真実だ。
(2001年01月10日掲載)
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