Hase's Note...


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「マージの手術」

 我が家の愛犬、マージのお腹に変なできもののような膨らみができていることに気づいたのは、わたしの連れあいだった。臍の上、体毛の生え際のあたりに、ぷよぷよとした直径五センチほどの膨らみがある。
 即日、わたしはマージを病院に連れていった。仕事もなにもかもを放り出して、だ。当たり前である。BMWにマージを押しこみ、くんくん鳴くのを無視して(涼しい時なら、夜、マージを車に乗せてどこぞの公園に行ったりもするのだが、暑くなるとそうもいかない。春から秋にかけての期間、マージが車に乗せられるということは即、病院に連れていかれるということだ。マージはその辺のことを実によく心得ている)、病院に直行する。
 マージを診てくれるのは村上先生という、それはもう実に温厚な獣医さんで、この人がいなけりゃマージはとっくに死んでいたかもしれず、わたしは素直に信頼している。
 村上先生はマージの腹のできものを触診し、眉間に皺をよせる。それだけでわたしの心臓は破裂しそうになる。
「触った感触からして酷いものとは思えないんだけど、とりあえず組織取りだして病理研究所に分析してもらいましょうか。もし癌だったら目も当てられないから」
 癌ーーその言葉を耳にした時のわたしの気持ちをどう表現したらいいのだろう。もう、小説家失格である。
「癌かもしれないんですか?」
 そう問うわたしの声ははっきりと顫えていた。
「いや。万が一、ということでね。ただの脂肪の塊とも考えられるし......周りはぷよぷよしてるんだけど奥の方にちょっと固いしこりみたいのがあるんで、それが心配なだけだから」
 村上先生はそういうと、マージの腹のできものに注射をし、組織を吸引する。マージは呼吸を荒くし、不安げな目でわたしを真っ直ぐに見つめている。マージがいいたいことはわかっている。
「わたし、ここ嫌い。早くお家に帰ろうよ」
 ああ、わかっているとも、マージ。だがもし癌だったらどうするのだ。おまえがいなくなったら、おれはどうしたらいいのだ。こらえてくれ。我慢してくれ。そんなことよりマージ、おまえ、あんなに長い針を腹に刺されて、痛くも痒くもないのか? 痛くなさそうだなぁ。
 わたしの思考は支離滅裂である。
 吸引を終え、止血処理が施されると、やっとマージは診察台から降ろされた。マージは、病院に行くと、診察台に自ら進んで登ろうとする。診察台にあがるということは、わたしと一緒に帰れるということであり、診察台にあがらないということは、狭い檻の中に入れられ、しばらくの間、わたしと会えなくなるということを意味する。マージはその辺のところを実によく心得ている。
 病理研究所の分析結果がわかるのは10日から2週間後になるだろうと村上先生はいった。それまで、できることはなにもない。
 車での帰路、行きはくんくん鳴いていたマージは、おとなしく後部座席で伏せている。家に帰れるということがわかっているのだ。マージは安らかな気持ちでいることだろう。だが、わたしの気持ちは安らかというにはほど遠い。マージが癌だったらどうしよう。マージが死んだらどうしよう。頭の中を駆け巡るのは、ただそれだけだ。
 我が家に来た時からマージはわたしに依存して生きてきたが、今ではわたしも連れあいもマージに依存している。マージがいない生活など考えられない。
 帰宅して連れあいに報告する。わたしの顔色を見た連れあいが、いう。
「だいじょうぶ。癌なんかじゃないわよ。だって、マージの目、ぜんぜん元気じゃない。癌だったらこんな生き生きとした目、してないわよ」
 そりゃおまえ、大嫌いな病院から家に戻ってこれて嬉しいからだろうーーわたしはわたしの言葉を飲みこんだ。
 それからの2週間は、検査の結果が気になって、仕事もほとんど手につかなかった。やらなければならないことが山積しているのはわかっているのだが、ふと気づくと、足元で寝ているマージをじっと見つめている自分がいる。死ぬなよ、元気で長生きしろよ??呆然とそう呟いている自分がいるのだ。
 テレビのニュースで極悪非道な犯罪で人が殺されたと聞いてもわたしは眉ひとつ動かさない。北朝鮮に拉致された人々の家族が悲しみと怒りと絶望の涙を流しても、わたしの心は動かない。が、ろくでもないクズ野郎が犬を虐待して殺したなどと聞くと、わたしはまなじりを吊りあげる。マージと暮らすようになってからだ。他の犬のことなど、実はどうでも良かったりするのだが、殺された犬がマージだったらと考えると、脳細胞が沸騰してしまう。
 わたしはそういう人間なのだ。マージが死んだら、わたしは耐えられない。いつかその時が来るのだと理性で理解していても、きっと、わたしは耐えられない。
 わたしの人生で、無償の愛を与えてくれたのは、マージだけなのだから。人間には持ちえない愛を、マージはーー犬は、与えてくれるのだ。
 2週間後、電話が鳴った。村上先生からだった。
「あのできものは、肥満細胞種といいまして、グレードが1から3まであるんですが、マージのはグレード2でした」
 肥満細胞種? グレード? なんのことだ? おれにもわかるように説明してくれ。
「これがグレード3ならちょっとやばいんですが、グレード2だとそれほど心配することはない......けれど、摘出した方がいいと思うんですよね」
「します、します。摘出します。すぐにマージを連れていきます」
 かくして、マージはまた車中の犬になった。くんくん鳴いては、わたしに行きたくないと訴える。こらえろ、マージ。おれのために我慢してくれ。
 病院で肥満細胞種なるものの概要を詳しく聞かされた。要するに腫瘍の一種で、周囲のコラーゲン細胞を破壊するので注意が必要とのことだった。癌ではない。といって癌とほど遠いものでもない。
「で、摘出手術なんですが、うちでやるか、それとも大学病院でやるか......大学の方が施設も整っているから、万一のときは安心なんですが」
「先生にお願いしたいんですが」
 わたしは即答した。大学病院の方が安心できる。それはわかっている。が、安心できるのは「わたし」だ。マージには関係がない。ただでさえ病院が嫌いなのに、知らない病院に連れていかれたら、マージにかかるストレスはどれほどのものになるのか。考えるまでもない。同じ嫌いな病院でも、マージが知っている村上先生の病院の方がマージにははるかにましなはずだ。それにわたしは村上先生を信頼している。
「わかりました。じゃあ、手術の日程はいつにしましょうか?」
「早ければ早いほど」
「じゃあ、明日なら空いてますから」
「じゃあ、明日にしてください」
 マージの手術はとんとん拍子に決まった。マージは診察台の上で採血されている。手術に支障がない肉体であるかどうか、検査するためだ。マージの息は荒く、口からはとめどもなく涎が垂れ落ちている。
 血液検査とレントゲンーーマージの身体に問題はほとんどないことがわかった。
「それでは、明日。マージには朝からご飯も水もあげないでください」
 マージ、飯抜きだってよ。おまけに水もだめだって。災難だな。だけど、我慢してくれよ。
 わたしの想いなど知ったことかといわんばかりに、診察台から降りたマージはわたしの脚にまとわりつき、威勢良く尻尾を振り立てている。家に帰れることが嬉しくてしょうがないのだ。
 が、翌日、マージはまた車中の犬になった。連日の病院行きである。マージのくんくん鳴きがいつにも増して激しい。
「なんで? なんでまた病院に行くの? お腹も減ってるし水も飲みたい。早く家に帰ろうよ」
 マージはそういっている。
 病院に着くと、マージはまた自ら診察台に登ろうとした。一刻も速く嫌なことを済ませ、わたしと共に帰りたい。だが、今日は一緒には帰れないということマージは知らない。
「手術といってもそれほど大がかりなものじゃないから、1時間ぐらいで終わります。ただ、麻酔を効かせますから、麻酔から醒める時間と、術後の経過に問題がないかを見たいので、夕方の6時ぐらいに迎えにきてやってください」
「術後の経過って......だいじょうぶですよね?」
「だいじょうぶ。8割がた、自信ありますから」
 8割しか自信がないのかよーーわたしは思わず村上先生の胸ぐらを掴みそうになってしまった。しかし、すんでのところで思いとどまり、自分にいい聞かせた。どんなことだって100パーセント確実ということはあり得ない。村上先生はそのことをいっただけにすぎないのだ、と。
「じゃあ、お願いします......マージ、いい子にしてろよ」
 わたしは村上先生に頭を下げ、マージに声をかけて病院を後にした。本当はマージのところに行って頭を撫で「頑張れよ」と励ましてやりたかったのだが、わたしがそばに行けば、マージは興奮する。
 病院の近くのファミレスで食事を取り、銀行に立ち寄って手術代の十万円を降ろした。犬の病気には金がかかる。しかし、金で命が贖えるのなら、いくらでも払ってやろうではないか。
 当然のことながら、帰宅しても仕事はまったく手につかなかった。時計を見ては不安になり、不安を覚えては時計を見る。その繰り返しだ。  午後四時になって、耐えきれなくなり、村上先生に電話をかけた。
「マージ、どうでしょう?」
「手術は無事に済みました。マージも麻酔から醒めて、すぐそこではあはあいってますよ」
 村上先生の言葉を聞きながら、膝から力が抜けていった。先生に礼をいい、電話を切った。マージは無事に帰ってくる。それだけで胸が一杯になっていた。
 6時になるのを待って、マージを迎えにいった。マージは診察室の奥にいて、わたしの視界からは見えなかった。だが、わたしの気配を察知したマージが興奮して息を荒げているのが聞こえた。
「もうあの調子ですから、心配はほとんどないでしょう。ただ、まだ麻酔の影響が残っているんで、今日一杯、水とご飯は遠慮してください。喉が乾いてるようなら、指を水に濡らしてそれをしゃぶらせるような感じで」
「わかりました」
 注意事項を聞いている合間に、マージが診察室の奥から姿を現した。村上先生とは別の若い獣医さんがリードを持っているのだが、その獣医さんを引きずらんばかりの勢いで前進してくる。
 ああ、マージ。そんなことした傷口が開くかもしれないじゃないか。
 マージの脚がよろめく。まだ、麻酔が効いている足取りだ。それでも、マージは前進をやめない。わたしを目指して、ただひたすらにわたしを見て、進んでくる。わたしと再会できた喜びを、尻尾ではなく、腰ごと左右に大きく振って表現している。
 胸が締めつけられる。マージを失いたくはないと、切に想う。
 わたしはマージを抱きしめた。マージが35キロの身体をわたしに押しつけてきた。
「いいから、マージ。落ち着け。暴れたら、傷に響くから。落ち着け。すぐに一緒に帰るから」
 どれだけ言葉をかけても、マージの喜びはとまらない。わたしに抱きつこうとし、脚をよろめかせ、それでもまた、わたしに抱きつこうとする。
 車に乗ってマージと一緒に帰宅する。いつもなら晩ご飯の時間なのだが、マージは疲れているのか、麻酔のせいなのか、すぐに自分の寝場所に向かった。床に身体を伏せようとして、腹が床に触れると「キャン」と鳴いて、起きあがった。
 傷口が痛むのか、違和感があるのか。わたしはマージの横に行き、マージの胸を撫でた。
「痛いか? でも我慢しろよ。すぐに痛くなくなるからな」
 わたしはマージを撫でつづけ、話しかけつづけた。やがて、マージは少しずつ身体を横たえ、目を閉じ、眠りについた。マージの眠りはいつもより深い。文字どおり、死んだように眠っている。わたしは1時間ごとにマージの寝息を確かめた。マージは生きている。ただ、眠っている。
「そんなことしなくてもだいじょうぶよ」
 連れあいがわたしをたしなめる。それでも、わたしはマージが生きていることを確かめずにはいられなかった。
 ああ、本当に、精神的にきつい2週間だった。

(2002年10月5日掲載)

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