Hase's Note...


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「沖縄」

 小泉の訪朝、拉致犠牲者の大量死亡発覚で日本中が揺れ動いている間、わたしは沖縄にいた。来年早々から週刊ポスト誌上で連載する新しい小説の取材のためだ。
 北朝鮮をゆるすな、いや、世界情勢のために早急な国交正常化を、とメディアが騒ぎ立てている間、東京よりも明らかに時間がゆったりと流れている沖縄で、わたしはいろいろな人たちに会い、日本復帰前夜の沖縄とそこに住んでいた人たちの声に耳を傾けていた。あるいは、巨大な、あまりにも巨大な嘉手納基地を目の前にして声を失っていた。
 拉致が理不尽な事件なら、沖縄にある米軍基地もまた理不尽な現実だ。二十数年間屈従を強いられ、日本に復帰したその後でも日本国民の排泄物を垂れ流されているような現実を押しつけられてきた沖縄の人々の暮らしもまた、理不尽な現実だ。
 沖縄の人は過去にも現在にも憤っている。しかし、その怒りの噴出は我々「大和」の人間のように直裁的ではない。なんというか、穏やかだ。時に、怒っているのかどうかわからなくなるほどに、穏やかだ。人がよすぎて、それで「大和」にいいようにあしらわれている。そんな感じがした。
 人と会っていない時は、わたしは今の沖縄市、かつてのコザ市に足をのばして、さびれてしまった繁華街や売春街を練り歩いた。南国特有の熱気と建造物の華やかさのせいで、わたしは香港や台湾の路地裏を歩いているかのような錯覚に陥った。沖縄は日本であって日本ではないのだ。流れる時間も、人の想いも違う。
 那覇の国際通りを歩くと人の多さに辟易する。当然、通りを歩いているのは観光客だ。日に焼けた肌と薄っぺらな知性をあらわにした若い「ヤマトンチュ」たち。あるいは、中年、老年の団体客。そこだけ、時間の流れが「大和」になっている。わたしはほうほうの態で通りを逃げ出し、島唄のライブを聞かせるという居酒屋に避難した。その居酒屋は、おそらくは観光客向けの店なのだろうが、その夜に限っては客はほとんどいなく、わたしは年季が入った歌い手の島唄を充分に堪能し、また、その歌い手について修行をしている若い島人(シマンチュ)が歌う、BOOMの「島唄」やBIGINの歌の初々しさに微笑んでいた。ロックで飲みつづけた泡盛の古酒のせいで、かなり酔っぱらった。
 別の夜は那覇市内の松山という繁華街で飲んだ。店のママも女の子たちも、六本木や新宿とは違ってぎすぎすしていなく、初めて訪れただけのわたしにマンゴーやらなんやら、沖縄の特産品を送ってくれると約束してくれた。
 わたしは毎夜、泡盛に酔いながら、しかし、頭の中では小説のことばかりを考えていた。わたしが書こうとしているのは、1968年から1970年、もしくは71年にかけてのコザ市だ。そこにいた「ウチナーンチュ」の物語だ。ウチナーンチュの悲しみや怒りや憎しみを、どうやって書いたらいいものか−−酔いながら、わたしは考える。
 わたしが小説を書く際のモチベーションは、「怒り」だ。わたしにはわたしの目に映る世界の仕組みが腹立たしくてしょうがない。それがゆえに小説を書いている−−おそらく。だから、わたしの怒りが強ければ強いほど、わたしの書く小説は暗く、重く、強いものになる。さらにいえば、わたしは「ヤマトンチュ」だ。わたしの怒りは直接的だ。沖縄の人の怒りとは微妙にずれる。
 まあ、いいや。なるようになるだろう。
 酔った頭でそう考える。だからこそ、酔って小説のことを考えてはいかんのだ。すぐに脳味噌が謀反を起こす。それに沖縄の夜の空気は甘く、重く、ひたすらに居心地がいい。ゆったりと流れる時間に身を浸していると、すべてがどうでもよくなってくる。
 沖縄は素敵だが、危険でもある。
 酔いながら、沖縄に住むことを考えたが、仕事をしなくなって破滅するだけだろうという結論に達した。わたしのようにだらしのない人間には、沖縄は本当に危険だ。遠くから指をくわえて眺めているだけで満足しなければならない。
 いずれにせよ、沖縄にはもう何度か足を運ぶことになるだろう。もちろん、わたしは海で泳いだりはしない。

(2002年9月24日掲載)

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