「歌えない」
WWF−−ワールド・レスリング・フェデレーションの『スマックダウン』という番組を見ていた。
同時多発テロの数日後に行われた大会で、いつものストーリィ路線ではなく、淡々と試合が行われた。番組の冒頭で普段はヒールに徹している団体のオーナー、ヴィンス・マクマホンがアメリカの大義を称える演説を行い、その後、全選手がリング周辺に集結して、合衆国の国歌を斉唱した。
わたしは反米主義者だし、アメリカの大義などこれっぽっちも信じてはいないが、羨ましいなと思った。
ワールドカップのヨーロッパ予選、イングランド対ギリシャ戦を見ていた。
勝てば無条件でW杯出場が決まるというその試合で、イングランドは苦戦した。ギリシャに先制され、追いついてもすぐに突き放され−−スタディアムには暗い雰囲気が充満していた。やがて、どこからともなく歌声があがり、それはスタディアム中に広がっていく。歌われたのはイギリスの国歌、『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』だ。イングランドはロスタイムで同点に追いつき、W杯出場を決めた。
わたしはヨーロッパでイングランドのサポーターに散々な目に遭っているので、できれば、イングランドには負けて欲しかった。わたしが好きな『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』はイギリス国歌のそれではなく、セックス・ピストルズのそれだ。
それでも、スタディアムにいる人間のほとんどがイギリス国歌を口ずさむ光景を見て、羨ましいと思った。
わたしはよくスタディアムに行く。日本代表の試合を見に行く。だが、わたしは我が国の国歌(本当は国歌ではないのだが)である『君が代』を歌うことができない。わたしだけではない。試合開始前のセレモニーでは胸を張って『君が代』を歌う若い連中も、日本代表が苦しい場面で、『君が代』を歌うことはない。もし、あの同時多発テロが日本で起きたとして、被害者を悼むために『君が代』を歌う者もいないだろう。
『君が代』は闘いに向かう前や苦難にある時に口ずさみたくなるような歌ではない。曲調がマイナーだから、ということもある。だが、それよりもなによりも、『君が代』という歌が、日本国を構成するわたしや君や彼や彼女のことを歌う歌ではないことが最大の原因だろう、とわたしは思っている。
右翼の詐欺師たちは狡猾に否定するが、あれは「天皇」を歌う歌だ。だれもがそう思っている。わたしは天皇ではない。君も、彼も、彼女も、天皇ではない。わたしや君や彼や彼女が、自らの名誉のために闘いに赴く時、想像を絶する困難に直面した時、わたしや君や彼や彼女を勇気づけてくれるのは、天皇を称える歌ではない。それは我々の歌でなくてはならない。
『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』は問題があるかもしれないが、イングランドのサポーターには『ヒア・ウィー・ゴー』という応援歌がある。「ウィー」という言葉に、サポーターの意志が込められている。おれたちも一緒に闘うのだ、おれたちも一緒に困難に立ち向かうのだ、という歌だ。
日本にはそういう歌がない。わたしや君や彼や彼女のための歌がない。ただ押しつけられ、それが国歌だからといわれる歌があるだけだ。
あのテロ事件のあと、テレビからは何度も何度も繰り返し、合衆国国歌や『ゴッド・ブレス・アメリカ』が流れていた。そうした歌が、被害者たちを勇気づける場面が何度も流された。
日本の若い衆もあれを見て、なぜおれたちの国歌は『君が代』なんだろう、なぜおれたちの国にはおれたちのことを歌う国民的な歌がないんだろう、と考えてくれないかな、とちらっと思ってみる。
考えたりはしないんだろうなという結論に達する。
ああ、虚しい。
(2001年10月10日掲載)
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