Hase's Note...


┏-┓
-

「書評、あるいはノワール、あるいはただ筆のすべるまま」

 まずは−−アンケートにご協力、ありがとうございます。とくに深い意味があるというわけではないのだが、普段、なんとなく疑問に思っていたことどもに、なんとなく解答が見つかったような、見つからなかったような。ブックオフより図書館のあり方の方が大問題だろうと思っている人間としては、図書館利用者が以外と少ないのが驚きでもあり、嬉しくもあった。まあ、このあと寄せられるアンケート回答で別の結果が出るかもしれないが。
 それはそれとして、本サイトに対する要望の欄に、昔のように書評をやってくれないか、というものがいくつかあった。
 結論からいうと、書評はやらない−−というか、やれない。最近のわたしは、他人の小説を、まったくというほど読まない(自分の小説も、文庫化されることがないかぎり、読み返すことはない)。書評家時代は、数えたことはないが、それでも、年に二百冊以上の小説を読んでいただろう。今は、年に十冊も読まない。それで書評など、おこがましくてできるものではない。
 なぜ、読まないのか? つまらないからだ。小説家である、ということは、小説を書くのも読むのも仕事になってしまう、ということだ。どれだけ血湧き肉おどるような波乱万丈の小説であったとしても、読者として小説を読んでいる自分とは別の自分がいて、「おれならこういう書き方はしない」「このネタをこんなに安易に使うなんてもったいない」などと囁くのだ。こんな読書は、楽しくもなんともない。だから、わたしは小説を読まなくなった。普段もっぱら読むのは、ノンフィクション系の作品ということになる。
 とはいえ、もともと小説が好きで、それが嵩じて作家になったようなものなのだから、ときに、無性に小説を読みたくなることがある。そんな時は、素直に小説に手を伸ばす。ジェイムズ・エルロイ、ジム・トンプスン、エドワード・バンカーの新作、もしくは初訳は必ず読む。それ以外は−−巷で評判になっているらしいものを読む。名前を挙げた作家たちの作品は、多少のぶれはあったとしても、楽しく読める。それ以外のものは、たいていは失望してページを閉じる。
 ハードボイルドやら冒険小説といったようなものにはほとんど興味がないので、手に取るのはノワール系の作品ということになる。そして、なにがノワールだ、馬鹿野郎と呟くことになる。
 去年の例でいえば、ある書評子がノワールとして絶賛した日本人作家の小説を読んだ。あまりに文章が酷くて、百ページも進まないうちに読むのをやめた。腰巻に、ある書評子の「絶対零度のノワール」というキャッチフレーズがあった『ミスター・クイン』なる小説は、ノワールでもなんでもない、どうしようもない女好きでただ運がよかったというだけなのに、自分は頭がいいと思っている大馬鹿者が主人公の馬鹿げたクライム・ノヴェルだった。バカミスという言葉になぞらえれば、あれはノワールなどではなく、バカ犯罪小説だろう。
 ここ一、二年、世の中ではノワールが流行りなのだと聞いていたが、その実体はこんなものだ。自分も参加する予定の企画にこんなことをいうのもどうかと思うが、毎日新聞がはじめた「アジアン・ノワール叢書」も、執筆予定者の名前を眺めるだけで溜め息が出てくる(ことわっておくが、執筆予定者が酷い、といっているわけではない。どう考えても「ノワール」を書く作家じゃないだろうという人たちが、多くラインナップされている、という意味だ)。当初、わたしが聞いていた企画とは、ずいぶん離れてしまっている。それでも、約束したからには書かねばならない。
 まあ、しかし、こんな安易な使い方をされているようでは「ノワール」という小説ジャンルは、四、五年も経てば、忘れ去られていくのだろう。ノワールなんてつまらない−−そう思う読者が大勢出てくる。自分が人生を賭けて進みはじめた道が安易に荒らされていく。なにごともお手軽にお気軽に。それがこの国を支配する現実だし、その現実に対する違和感がわたしをノワールに向かわせ、現実に対してノーを突きつけるために「不夜城」を書いたのだった。その「不夜城」があれほどのベストセラーにならなければこんなことにはなっていなかったのだろうと思うと、苦笑いするしかなくなってくる。
 書評の話から、ずいぶん脱線してしまった。たまにはこういうとりとめのない文章もいいか。

(2001年03月20日掲載)

-
┗-┛


[← 前号ヘ] [次号へ →]



[TOP] [ABOUT SITE] [INFORMATION] [HASE'S NOTE] [WORKS] [LIST] [MAIL] [NAME] [SPECIAL]

(C) Copyright 2001 Hase-seisyu.Com All Rights Reserved.