「習作」
小説を書くのも芸事と同じだ、毎日書いてなきゃ腕がさびる−−といったのは花村萬月だ。萬月のことだから、その場で思い浮かんだことをでたらめに口にしただけのことだろうが、わたしも同意する。
天才ならいざ知らず、我々のような人間は、毎日書きつづけることで文体を作り上げていく。自らのリズムを身体に覚え込ませる。一週間も書くことを休めば、リズムを取り戻すのに、それに倍する時間を必要とする。
とはいえ、書けない日があることも事実だ。どれだけ唸り、叫び、家人に当たり散らしてもなお、一行も書けない日が、ある。書けない、だが、なにかを書かねばという焦りも消えない。
今回アップするスケッチ風の掌編は、そんなときに、自分の記憶をまさぐりながら書いたものだ。
こんなものでも読んでみたいという人が多ければ、少しずつ、このサイトに載せていこうと思う。もっとも、そんなにしょっちゅうは書けないので、次の掲載がいつになるかはわたし自身にも予想がつかないのだが。
*五歳か六歳のころ
小猫は七匹いた。七匹はそれぞれが重なり合うようにして、身体を丸めて眠っていた。母猫が満足そうな表情で七匹の寝顔を見つめていた。
少年は一匹の小猫に手を伸ばした。母猫の毛がかすかに逆立つ。
「だいじょうぶだよ。いじめたりしないから」
少年は母猫に語りかけた。白と灰色の毛を持つ小猫の背中に掌をそっと乗せた。小猫の毛は柔らかかった。掌にくすぐったかった。小猫の身体は暖かかった。小猫の身体からミルクのような匂いがした。少年は小猫の手ざわりを心ゆくまで味わった。
乱暴な足音が近づいてきた。母猫が牙を剥いて少年を威嚇した。少年は名残惜しそうに小猫から手を離した。
「そろそろ行くべ」
足音の主は祖父だった。祖父は小振りの段ボール箱を小脇に抱えていた。
「お爺ちゃん」少年は祖父を見あげた。媚びるような表情が浮かんでいた。「一匹だけ、いいでしょう?」
「お母さんは飼ってもいいといったか?」
少年は首を振った。
「したら、他にもらってくれる人、見つけたべか?」
少年は首を振った。
「だったら、だめだ。約束したべ? おまえが猫をもらってくれる人を探してきたらって」
「だけど……」
少年は抗おうとした。祖父の顔を見て口を噤んだ。祖父は怒ったような表情で少年を見おろしていた。
「約束したべ?」
祖父は繰り返した。少年はうなずいた。
「おまえの気持ちはわかってる。優しい子だからな。だけど、爺ちゃん、いったべや。うちには猫を三匹も四匹も飼っておく余裕はない。山の中に投げてきても、こったら北海道の山奥で、小猫なんかすぐに死ぬ。生き延びても、野良になって悪さして、近所の人の迷惑になる。爺ちゃんのいったこと、わかるべ?」
「わかるよ」
少年は吐き捨てるようにいった。
「したら、こん中に猫、入れろ」
祖父の差しだした段ボールを少年は受け取った。少年は唇を真一文字に結び、小猫たちに向き直った。
母猫が起きあがっていた。毛が完全に逆立ち、足の先から伸びた鋭い爪が見えていた。語尾の顫える、威嚇のうなり声をあげていた。
「うるさい! あっち行ってれ!!」
祖父が母猫の腹を蹴りあげた。母猫は悲鳴をあげて走り去っていった。
小猫たちが目を覚ました。少年は一匹ずつ手ですくい、頬ずりをしてから段ボールに入れた。七匹すべてを段ボールに入れると、ガムテープでぴったり蓋を閉じた。
段ボールの中から七つの小さな鳴き声が聞こえてきた。少年は目を閉じた。「ごめんね」と呟いた。
「さあ、行くべ」
祖父に促されて少年は立ちあがった。段ボールを両手でしっかり持ちあげた。居間を横切って玄関に向かう。祖母の姿を探したが、見当たらなかった。
外へ出る。冷たく澄んだ空気が肺を満たした。四月−−まだ肌寒い。家の前の池に波紋が広がっていた。人の気配を感じて、餌をもらえると勘違いした虹鱒たちが騒ぎはじめている。
池は全部で十前後あった。祖父がひとり森を切り拓き、土を掘り、近くを流れる向別川の水を引いて作ったものだった。祖父は人里離れた山奥で虹鱒の養殖をやっていた。ときおり訪れる人たちのための、釣り堀を兼ねた池もあった。ゴールデンウィークや夏休みにやって来る人たちは、釣り竿と餌を借り、虹鱒を釣る。釣った魚をフライや塩焼きにして、その場で宴会をする。
白い雑種犬がどこからか姿を現わし、少年の周囲を嬉しそうに飛び跳ねた。
「ごめんよ、シロ。今日は遊んでやれないんだ。タローと遊んでおいで」
少年はいった。家の右手に視線を向けた。タローは鎖で繋がれていた。地面に身体を横たえて眠っていた。シロが近寄っていくと、素速く起きあがり、山の向こうにも届くような大きな声で吠えた。シロはからかうようにタローの周囲を走り回っていた。
タローは釣りに来て酔っぱらった客に酒瓶で殴られた。それ以来、人が嫌いになった。いうことを聞くのは祖父と祖母だけで、それ以外の人間が近づくと狂ったように吠えたてる。
少年は何度もタローの頭を撫でようと挑戦し、そのたびにしくじっていた。今では、タローが鎖に繋がれるのもしょうがないと思っていた。
「遅くなると、日が暮れるべ」
祖父が少年の背中を押した。六〇をすぎているのに、祖父の筋肉は力強かった。祖父は土の匂いがした。少年は祖父が好きだった。血が繋がらないことは知っていたが、そんなことは関係がなかった。
少年と祖父は車に乗りこんだ。森を切り拓いて作った砂利道の上を車が走り出した。数日前に降った雨のせいで、道はところどころが泥濘んでいた。抉れていた。抉れた箇所は雨水が溜まったままになっていた。車は激しく揺れた。揺れるたびに、段ボールの中から不安げな鳴き声が聞こえてきた。
少年は段ボールを膝の上に置いた。揺れないように両端を手で押さえた。
「連休はどこかに行くのか?」
祖父が口を開いた。少年は窓の外に視線を向けながら答える。
「ううん。お父さんは家にいないし、お母さんも忙しいって」
森が途切れ、向別川が見えてくる。川幅五メートルほどの小さな川だった。橋はなく、祖父が運転する車は水を跳ね上げながら川を渡った。
「じゃあ、爺ちゃんのところに来るか?」
「うん……でも、友達と遊ぶ約束してるんだ」
「あの喘息持ちの子か?」
「うん」
「そうか。ちゃんと遊んでやれや。おまえも身体が弱かったからなぁ。身体の弱い子は可哀想だ」
それっきり、祖父は口を閉じた。少年も口を開かなかった。段ボールの中の小猫たちも、疲れたのか鳴くのをやめていた。
車は町道に入った。同じ砂利道だが、祖父が自分で作った道とは道幅が違った。左右に小さな田んぼが広がり、その奥には小高い山が聳えている。山は緑に覆われていた。つい一月ほど前までは雪に覆われて真っ白だった。
車の中は暖房で蒸し暑かった。少年は窓を開けた。肌を刺すような冷たい空気が車内に流れ込んでくる。少年は冷たい空気を肺一杯に吸いこんだ。空気には森の匂いが染み込んでいた。かすかに馬糞とガソリンの匂いが混じっていた。
少年は膝の上の段ボールに耳を近づけた。小猫たちはだいじょうぶだろうか? ちゃんと息をしているだろうか?
なにも聞こえなかった。少年は段ボールを揺すった。小さな鳴き声がした。少年はほっとして、窓を閉めた。
二十分ほどして、祖父が車をとめた。車の正面には小さな橋があった。橋の下には向別川が流れていた。川の流れは穏やかだったが、水は冷たく澄んでいた。
「爺ちゃんがやろうか?」
祖父がいった。少年は首を振った。
「ぼくがやる。自分でやるって決めたんだ」
「そうか」
祖父はそういって車を降りた。少年もそれに続いた。ふたりは橋の上をゆっくり歩いた。橋の真ん中で、祖父が足をとめた。
「ここでいいべ」
少年は欄干から顔を出して、橋の下を覗きこんだ。魚影が見えた。何匹かの魚が、河岸近くの澱みのところで飛び跳ねていた。
「本当に、爺ちゃんがやらなくてもいいのか?」
祖父がいった。少年はまた首を振った。
「自分でやる」
少年の声は頑なだった。
少年は段ボールに視線を注いだ。少年はミミズを殺したことがあった。蛙を殺したことがあった。蝶を殺したことがあった。バッタを殺したことがあった。
猫を殺したことはなかった。
少年は段ボールを頭の上に掲げた。小猫たちの鳴き声は聞こえない。
「鳴かないで」少年はいった。「鳴くと、悲しくなるから」
ミミズや蛙を殺した時は悲しくなどなかった。
少年は自分をふるいたたせるように首を振った。段ボールを橋の下に投げ飛ばした。段ボールは水の上で何度か揺れた。そのまま、川下に流れていった。少年は段ボールを見つめ続けた。頬が紅潮していた。
「もう、行くべ。風邪でもひいたら、わやだからな」
祖父がいった。
「うん」
少年は怒ったように応じた。踵を返し、車に駆け戻った。一度も振り返らなかった。
* * *
半年が過ぎた。居間の電話が鳴った。母が電話に出た。母の言葉遣いから、電話の相手が祖母であることが少年にはわかった。
「お婆ちゃんから電話だよ。また、猫に子供が産まれたから見にこいって」
「行かない」
少年は叫ぶようにいった。
(2001年01月22日掲載)
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