【M】
(文藝春秋)
−眩暈-
外資系PCメーカーの営業マン・児玉は三十五になった。妻の予期せぬ出産とマンションのローン。愛せない子供への養育費。殺意すら思える毎晩の夜鳴き。強いられた禁煙。頭の痛くなる出来事が積み重なる日々の中、自問自答を繰り返す。これがおれの望んだことか? 答えは見つからなかった。真っ黒に塗りつぶされた未来を呪いながら、児玉はいつしか、妻の妹・奈緒を心の拠り所にしている自分に気付き始める。
ある日のこと、会社の同僚から児玉はMOディスクを手渡される。
それはパンドラの箱だった。
際限無く広がり暴走する妄想。浸食する――気が狂いそうだった。
−人形−
就職活動の帰り道、電車の中で由美は、幼い頃に家族ぐるみの付き合いをしていた金子家の父親・達也と数年ぶりに出会った。
グッチの黒のセーター、パンツ。ゴルフ焼けした顔。半分白髪混じりの豊かな髪。ほのかに香るオー・ド・トワレ。
裕美は物心ついた時から、歳の離れた達也のことが好きだった。駅で達也と別れた後、忘れていた裕美の感情に再び火が灯る。
このまま帰っても何もすることがない――そう思ったときは降りた電車に再び飛び乗っていた。達也が降りる駅まで一緒に行こう。この出会いは偶然じゃない――そう意を決した時は達也の後をひっそりと追っていた。
古いマンションに入っていく達也を見送ってから一時間。
達也は出てこなかった。恐る恐る裕美はマンションの中に入る。四〇二号室。達也が入ったと思われる部屋の前に立った。
帰ろうとした瞬間、ドアは音もなく開けられた。
「先程電話をくれた方ですね」 抑揚のない男の声。
導かれるまま中に入った。そこは、会員制の高級売春クラブだった。驚愕。逃げるようにして部屋を出る裕美。
数日後――裕美は再び四〇二号室の前に立っていた。
裕美は――売春婦になった。自ら志願して。
いつか――達也が客として目の前に現れるのを夢見て。
もう一度、逢いたかった――悲しすぎる純愛がここにある。
−声−
息子の将人がいじめられているらしい――秀之と聡子はその証拠を掴むために将人に盗聴器をつけることにした。聡子は高級ブランドに身を固めた由美を羨ましがった。由美に勧められ、聡子は伝言ダイヤルにメッセージを吹き込む。聡子にとって、携帯電話はまさに魔法の箱だった。将人に手がかからなくなってから秀之とのセックスは無い。胸にぽっかりと空いた穴。伝言ダイヤル――男たちが与えてくれる金とスリルと快楽。胸に空いた穴が埋まった。
秀之はミスを犯し閑職に追いやられ、自ら辞職した。
昼間家にいる無職の夫。穴がまた開き始めた。聡子は嘘でその穴を埋めた。
友達がやっている喫茶店を手伝っている――秀之は聡子の言葉をすんなりと受け入れた。そして、聡子は今日も伝言ダイヤルに声を吹き込む。男たちからの声に耳を傾ける。
三番目のメッセージ。俵という男の声に惹かれた。低い声、落ち着いた喋り方。俵という男はどんな男だろう。どんなセックスをするのだろう。聡子は甘美な思考を弄ぶ。しかし現実は甘くなかった。
俵の声に誘われた聡子。盗聴器から聞こえてきた将人。
だれか助けて――悲痛の「声」だけはいつも誰にも届かない。
−M−
まゆみはいつも乾いている。乾いていないのはあそこだけだ。
父さんと母さんはいつも汗まみれだった。縛られて悲鳴のような声を挙げていた母さん。
だからぼくは――父さんを刺した。汗っかきの女は好きじゃない。
そうして、ぼくらは出会った。
まゆみの声は乾いている。縛っただけで、まゆみは濡れた。
――死んじゃう。許して。まゆみは顔を歪める。母さんのように懇願している。まゆみはぼくの命令を無視して勝手に絶頂に達している。悲鳴のような声を挙げて。母さんは父さんに決して逆らわなかった――だめだ。ぼくは言う。父さんのように。
バイト帰りに五反田へ。日課になった。百万あった貯金はなし崩し的に減っていった。
まゆみのために携帯を買った――誰からもかかってこない携帯電話を。
まゆみが欲しい。まゆみのことがもっと知りたい。本当のまゆみが知りたい。
ぼくは押し潰される――。
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